プロフィール

Author:トップチャン
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

井上 靖全集 第1巻

通夜の客・・1960年「わが愛」という映画(五所平之助:監督、有馬稲子・佐分利信:主演)になり、喪服の女性の美しさが話題になった記憶がある。 主人公、新津礼作はB新聞社東亜部長や論説委員を歴任し、終戦と同時に職を辞し、家族とも離れて、一人鳥取県の田舎で晴耕雨読の生活を送っている。そして四年目も半ばに近く社で新津の噂も間遠にしか聞かれなくなった時分、彼は健康そうな顔をして新聞社に姿を現した。後輩たちの歓迎の会があちこちで催されるなか、彼は突然亡くなった。 通夜の最中、見知らぬ美しい女が、お焼香にやってきた。敷居のそばに慎ましく座ったが、黒っぽい服を着た若い女だった。夫人が部屋を出て行くと間もなく、それまでじっと遺骸の前に頭をたれていた女は、すっと手を伸ばして、遺骸の顔の上にかぶせてあった白布を取ったと思うと、覗き込むように新津の死面に見入り、それから又白布を元のように置いた。玄関まで送り出した親戚の女が、焼香の礼をいい、失礼ですがお名前をと言うと、「水島きよと申します」と、ただそれだけ答えた。 もうこれだけで、読者は充分読書欲をそそられてしまう。これから、新津と水島の関係は果たしてミステリー風に展開するのか、松本清張風に社会問題化していくのか? 水島との出会いは十年以上前に日本橋のお茶屋で、十六になる初心で何も知らなかった娘の時だった。同じお座敷に出ていた秀弥姉さんと新津との忍ぶ恋を見ながら、いつしか自分との恋に代わっていった経過が綴られている。 そして又、新津が鳥取県の田舎に引っ込んだ事を知り、勝手に押しかけて行き同棲を始めてしまう。 井上靖描く主人公の男性の典型? 短篇「猟銃」に出てくる男のように、クールで取りつく島もない様でいて、一旦親しくなると離れられなくなる、女心を刺激する、当時はあこがれる男性像ではなかったろうか。彼の作品はこのように、物語の展開に重点があるのでなく人間関係がどう成立していくのか、ここに面白さがあるのだと思う。

井上 靖全集 第1巻

闘牛・・新聞社が戦後すぐの話であるが、阪神の野球場を使用して牛相撲をやらせようというものである。四国から闘牛を輸送して、グランドの真ん中に竹矢来で闘牛場を作り、野球見物の大観衆に見せるという大変実現困難な一種の興行(戦後よくあった)である。それを立ち上げる人を興行師と呼んで、どこか胡散臭い感じを持っていた。一種の博打である。一攫千金を狙う博打うちである。 この話は新聞社が主催するため、その宣伝は新聞紙上で様々な解説や文化論など、本来闘牛という泥臭い、反都会的なイベントをそれとは違う切り口で喧伝している。そしてその主催の中心人物で新聞社のインテリが引き受けて、やっているところに面白さがあるのだろう。利益を少なくしても、安全に興行できる話がやってくるが、新聞社はそうせず、サイコロを振ってしまう。それは新聞社が博打を打つことに意味があるかのように。そしてハッピーエンドにしてくれない。現実とはこんなものだよ!というように。

井上 靖全集 第1巻

短篇 短編で知っているのは、猟銃、闘牛、通夜の客の三篇である。読んだ事があるのか単に名前だけ知っているのか不明である。本当に素晴らしい健忘症。認知症ではない。猟銃・・先の散文詩「猟銃」を書いた主人公に対して、ある読者がそれはたぶん私のことを書いたものです、という手紙が届く。場所も時間も更に服装や持ち物まで、私が目にした人とまったく同じであった。驚くことに、紳士の肩にしている物は猟銃である事以外に見分けがつかなかったが、詩を書くにあたり、猟銃の最高級品はリチャアドかチャアチルであることを調べチャアチルと決めた事も、この読者の手紙の内容とピッタリ一致していた。そんな読者からの手紙に、彼の驚くべき人生が語られるのである。もちろん、彼は都会の雑踏の中を、冷たく白く輝く猟銃を肩にして、その周辺の人々を少しも近づけない冷静で、高踏的な姿勢を持った男として、描かれることになる。 若い娘とその母そして母の妹が登場する。娘にとってこの猟人はおじであり、母とその妹(おば)との三角関係(この猟人と妹が夫婦)がドロドロというパターンではなく、上流社会の不倫騒動が、われわれ庶民にはそんな綺麗事が自殺までいってしまうのか、と思われる悲劇になる。井上靖の世界は本当に現代という、どうしようもない絶望的な世情(報道によると〜旦那を殺しただけでは、彼女、奥さんのプライドは納まらない。切り刻んで五体をバラバラにして、人知れず深山に遺棄するのでなく、ご近所にばらまいて、やっと癒される〜という事件があった)とは違っていた。悪者は一人も登場しない、と書いたが善人もまた一人も登場しない。公平である。井上氏の繊細な神経は、凡人には理解されがたく、ほんのチョットした仕草や言葉の端に話の展開を大きく左右する出来事を忍びこませている。それが上流社会のあるいは昔流の貴族たちの流儀だろうか。ベッドシーンがながなが続く誰やらの小説ではない。こんな事まで神経使わなければ人間関係はうまくいかないのか?と思わせるのは私の方が鈍感なのか。 しかし、散文詩から入っていって、その人物が冬の寒い日、チラと目にしただけの猟銃というキーワードから大きく展開していくストーリーは見事である。

井上 靖全集 第1巻

月光(星欄干)・・深夜、机に対ったまま、目覚めている。一日中、崩れ、崩れて、体の中も、心の中も、今は廃墟の如きものになってしまって、いやに静かである。月光でも降っているのではないか、と思われるくらい、冴えわたっている。この頃になって、一日中、崩れに崩れているものの正体がはっきりする。“自信”というものであったことを知る。健康についての自信も崩れ、仕事のついての自信も崩れたのである。 お陰で深夜の今、月光を浴びて、廃墟に取り残されてある大理石のベンチに、腰を下ろしている。廃墟でなくて、無人の宮殿かもしれない。仕事にも、健康にも、自信を失うと、こうした所で、からっぽになった躰を、月光にさらすことになる。月光が労ってくれるのだ。・・井上靖という大作家が、このように自信を失う事があるのか。などど、他人の不幸を肴に自身の慰めにしようとは思わない。人間として、当たり前の出来事であり、人生の転機には起こりがちな事である。私と違うのは、井上氏の豊富な中国旅行経験あるいは西域訪問経験は、敦煌や漠高窟のようなスケールの大きな廃墟であり、月光も信州にあるのではなく荒涼とした砂漠の上から降り注いでいるものであろう。同じ自信喪失でも、スケールの違いを感じてしまう。実際にはそんな事ないのだろうが!

井上 靖全集 第1巻

 ハバロフスク(遠征路)・・この文は上下二段で1ページ、これが3ページあるので全文は省略する。 私は過って一度この町にきたことがあった。深夜アムール河の河港に上がり、断崖に架けられてある長い木の梯子を登って、台地の上にあるこの町に入ってきた。しかし何時のことであったか、いっさいの記憶が失われている。 私は終日この町を歩き回った。あの河港の台地も失われ、今はハバロフスク市民の水浴場になっていたが、季節はずれで誰もいない。私は裏町の小さなベンチにもう長いこと隣り合って座っている老婆に話しかけた。昔この町でアンドレイ・ブリュスニンという大商人のお宅にお邪魔したことがありますが、ご存知でしょうか?老婆は上目遣いに私の顔を見守ったが、「確かにそういう家はありましたが、でも今はもうなくなっています。なにしろ遠い昔のことで、わたし以外にそういう家があったことすら知りません。」そしてちょっと間をおいて「ただ一つだけ覚えていることがあります。その家で、ある晩一人の日本人のお客に対して、赤いワインを差し上げ、更に小さい花瓶に草花を挿したものをあげたことを覚えています。」 ふいに私の瞼にアンドレイ氏宅の火の燃えている暖炉が浮かび上がり、そこで過ごした時間が蘇ってきた。主人は六十歳くらいの大男で夫人は純然たるロシア系で小柄な人であった。話が弾んだ主人は無償でウスリー産のハンツセル獣皮をくれると言い出したが、高価なもので私は固く固辞した。それでは二十五ルーブルもらうと言ったのでその金を渡した。その時十五歳くらいの少女が現れ、ワインを持ってきて私のテーブルの上に置いた。心を吸い取られそうな美少女だった。少女は一旦引っ込んだが再び現れたとき、草花を挿した小さな花瓶を手にしていた。私への贈り物だった。「それならその時の日本人は私に違いありません。」思わず息込んで言った。すると老婆は大きくかむりを振って、「あなたとは似ても似付かない人です。その人はエノモト・タケアキという名前であったと記憶しています。」そう言うと詐欺漢でも見るように冷たい視線を私に当て、ついとベンチから腰をあげた。明らかにどこかで間違いが起こっている。榎本武揚がこの町に来たのは明治十一年のことだ。その時からでも百年はたっている。狐が私を騙したのか、と老婆の背に向かって思いながら、私もまたベンチから腰をあげた。そしてシベリアの町の中に入っていった。あの夜のアムールは生きていたが、とわたしは思った。あの夜のアムールは、あの夜の闇は、あの夜の星は生きていたが、と私は思った。しかし、今は死んでいる!私は執拗にその思念を懐きしめながら、漸く霧が立ちこめて来ようとする極東の町の、十月の夕暮れの中を歩いた。

井上 靖全集 第1巻

 それでも少し感想を書けば、猟銃(北国)・・なぜかその中年男は村人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、彼に集まる不評判は子供の私の耳にも入っていた。 ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾のバンドをしめ、コールテンの上着の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼から消えない。生き物の命断つ白い鋼鉄の器具で、あのようにつめたく武装しなければならなかったものは何であったのか。私は今でも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの人(猟人)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく― 。そして、人生の白い川床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時に染み入るような重量感を捺印(スタンプ)するものは、やはりあの磨き光れる一個の猟銃をおいてはないかと思うのだ。・・このように取り出して読んで見ると、やはり都会のサラリーマンは孤独で戦場にある人たち、そして自己防衛のため猟銃のごとき物を携えていなければ安心できない。冷たく白く光る(白い河床にかけているのか、あるいはメタリック・シルバーか)猟銃と都会の人たちの心、彼井上氏はつい幼き頃の目に焼きついた光景を、その人間味ある瞼にダブらせてしまう。 

井上 靖全集 第1巻

井上 靖全集 第1巻


1995年4月20日発行 新潮社


詩篇


 北国、地中海、運河、季節、遠征路、乾河道、傍観者、星欄干、拾遺詩篇


短篇


 謎の女、夜靄、三原山晴天、初恋物語、紅荘の悪魔たち、霰の町、あすなろう、戦友の表情、母の手、旧友、めじろ、無声堂、ある兵隊の死、猟銃、闘牛、通夜の客。




∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 



 詩篇とあるけれども、ほとんどがエッセイ風で特に韻を踏んでいるわけではない、散文詩というのでしょうか。私はほとんど、詩の本を買ったことがない。この年まで室生犀星と萩原朔太郎くらいだろうか。


詩を見るとその意味を考えてしまう。当然のようだが詩はその意味を解釈しないほうがいいらしい。言葉の意味を考えるのでなく、文章から何を感じるかが重要、と言われる。


 若い子の作品など特に、意味がぜんぜん通じず同年代の他の子に聞けば決まって解釈しないで感じること、つまりこの詩を読んで、つまらないと思えばそれはあなたにとって、つまらない作品、でいいらしい。


むかし昭和の始め頃、「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき、・・」藤村の「初恋」や、「ふるさとは遠くにありて思うもの そして悲しくうたふもの、・・」犀星の「小景異情」や、「広瀬川白く流れたり 時されば幻想は消えうかん・・」朔太郎の「広瀬川」のように、読むだけで心地よく、意味もさわやかにあるいは激しく心にしみ込むなど、読者に共感を与えるような文句が入っている詩など、そのまま納得してしまう。


つまり要は、私には詩心がない、あるいは詩を受け入れる感性が無いせいか、これら井上靖氏の作品を読んでいても、ピンとくるものがない。しかし上記のようにかなりの量があるため、作品を早く読んでしまおう、という気持ちを捨ててゆっくり読み進めることにした.


 私は今の時点で、井上作品で有名になった物の6割から7割くらいは読んでいるつもりです。しかし、ほとんど忘れてしまっているし最近のドラマ(氷壁、風林火山等)や映画(蒼き狼、・・)も作品から離れている物も多い。だから全作品を読んだ後もう一度この詩篇として集められた作品を読みなおすことも面白いと思う。

読書案内 井上靖 しろばんば〜孔子まで

読書案内 井上靖 しろばんば〜孔子まで


 私は退職し特に決まった仕事にも付かず、また凝った趣味もなく、日々漫然と暮らしている男です。年齢はと言えば団塊世代のすぐ上くらいでしょう。まだ若いつもりです。青春時代は60年安保だ!とすぐ口にするくせに、実際のデモにも参加していないクラゲ男です。


 この文章を書こうと思ったのは、十年程まえから読書にある変化があったからです。それは子供たちとの話の中で、「心はどこにあるか」あるいは「心は物ではないのか」という話がきっかけで(めずらしく盛り上がった)、その方面の啓蒙書や科学本を読んだことです。多くの場合私は本屋さんに、当てもなく入り、ぼんやりと本棚を見ているのですが、この心の事を書いている本は結論があるわけではなく、なかなか解明がなされないので、逆に何時でも本屋さんで探すべき本がある、つまり目的があって本屋さんに入っているという訳で、面白い読書検索方法という訳です。そんなことから、ある特定作家の本を読むのは「目的のある読書」(読む事が目的とは?)という事からきています。


 井上靖という作家は、流行作家でしたが純文学作家でもなく、さりとてこてこての大衆文学作家でもない、バランスのいい作家と思っています。また、ある人が井上靖の作品には悪人が出てこないのは、彼の人柄を表している、と言っていたのに納得していました。 「次郎物語」(下村胡人)で育った私は井上靖の自伝三部作「しろばんば」、「夏草冬涛」「北の海」に夢中になり、更に西域もの、から晩年の宗教的、哲学的、あるいはスピリッチャルな物と私自身の心象風景と良く一致していたような気がします。それは私だけでなく、多くの日本人共通な心の変化あるいは成長の跡かもしれません。そんな訳でこの文章が多くの人の共感を得るのではないかと、秘かにまったく自信過剰に書こうと思った次第です。


 

| ホーム |


 BLOG TOP