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井上靖全集 第3巻

井上 靖全集 第3


ある愛情、ある自殺未遂、七夕の町、ある偽作家の生涯、二枚の招待状、


昔の愛人、梧桐の窓、鵯、薄氷、桜門、北の駅路、貧血と花と爆弾、桶狭間


氷の下、楕円形の月、小さい旋風、千代の帰郷、白い手、仔犬と香水瓶、贈り物、海水着、青いボート、落葉松、水溜りの中の瞳、あげは蝶、滝へ降りる道


夏花、晩夏、海浜の女王、頭蓋のある部屋、美也と六人の恋人、断崖、山の少女、爆竹、再会、ある日曜日、石の面、燃ゆる緋色、青い照明、黄色い帽子、


風わたる、騎手、春寒、天目山の雲、春のうねり、伊那の白梅


 


  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ある自殺未遂・・近所の川へ風呂代わりに石鹸を持って出かけた私が、ふとした気持ちから入水して、引き上げられてしまった男の其処に至る二日間を語った話である。


翌日の新聞記事は小さく“自分の将来を悲観した画家の自殺未遂”という内容を掲載していた。しかし三流紙はどこで嗅ぎ付けてきたのか、自殺を図った当日、私が内縁関係にある美沙という女に逃げられており、芸術上の行き詰まりと、失恋と二つの原因で前途をはかなんだものらしい、とかなり大きい見出しで興味本位に報道していたのにはうんざりした。しかし直接的な原因としては、近所の日雇い人夫の老人が言った“あんたは魔が差したんじゃ”というのが一番ちかいものであろう。


 その日の前日の話であるが、私の経済状況を心配したある先輩画家が、わざわざ彼自身の所へきた仕事を私に回してくれたもので、その講義録の執筆メンバーは、私を除いたら一応名前が知られている人々で占められており、従って無名な私の参加はやや破格な感じがあるものであった。其処へ届いた葉書に事務所の女性が書いたものか、「絵の描き方」は、


突然ですが、企画が変更になりましたので、お書きにならないで下さい。右お知らせいたします。という素っ気ないものであった。葉書一枚でこんな大事な事を、通達してくるとは非常識極まる処置であった。しかし、私はこの葉書の筆者に、さほど悪意があろうとは思わなかった。非常識をいっこうに非常識と考えていない筆者の無知が、最後に臆面もなくくれぐれもお身体を大切になさいますように、というような一行にも現れていて、私から怒りを取り上げると共に、やりきれぬ無気力な気持ちを私に押し付けてきた。こいつは救われないと思った。思い切った無礼極まる相手の貌が葉書の文章の内にでも覗かれるなら、こちらはこちらで怒りをぶちまける手もあるが、おそらく給仕ででもあろうと思われる筆者の幼さは、私をただ無性にうんざりさせて仕舞ったのである。


 そんな朝方の気分の悪さを抱きながら、午後勤め先のS中学校の同僚三人を招待している事を思い出し、ビールと安ウイスキーや撮みを市場から買ってきた。また母屋から借りてきた夏向きのガラスの皿にトマトや缶詰の鰯や肉を並べたり、ピーナッツやするめを小皿に並べたりした。このように私なりに、準備をして約束した時間を待ったが、いくら待っても三人は来ず九時近くなって遅くなってすみませんと出前の鮨屋が四人前の鮨を置いていった。何事か起こりつつあると私は思っていた。私は失意のどん底にある人間のように、無気力に十二時近くまで縁側に座っていた。約束の時間や場所は間違えないように、


お互いに手帳をもって、確認していたのである。翌日つまり自殺騒ぎの当日であるが、過って同棲していた美沙の住んでいるアパートにビール二本持って出かけた。


 彼女とは貧しい画学生時代、恋愛の真似事のような事をしていた時期があった。美沙の部屋の前に立って、扉をノックしたが、いくら叩いても扉は開かず、隣室の顔見知りの二十二、三のキャバレーに出ているという娘が顔を出して、彼女は昨夜引っ越して行きましたよ、といった。近所の部屋のかみさんたちも顔を出して、私の周囲に集まっていた。貴方にも何も言わずに引っ越して行ったんですか!と驚きの声を挙げ、管理人も来て扉を開けてくれた。四日ほど前、まくわ瓜を切りながら、「夏には一度くらい、涼しい所へ避暑にでも行きたいわね」そんな事を言いながら、美沙は私から去っていく計画をあの時既に仔細に立てていたのだろうか! その事を思うと、ひどくやり切れなかった。


 午後になり美術商である山根商会に招かれていたので、出かけて行った。これは山根商会の番頭がわざわざ私の家を訪ねてきて、「是非貴方に来ていただき、お食事をしながら、いろいろ中国の古い物について、お話をしたいと、主人が言っております」という話であった。約束の時間に少し遅れていくと、主人は外出中なので、と応接間に通された。三十分ほど待たされ、自分が二時間も遅刻したことに気付き、これくらいの時間は腹が立たなかった。そうして、さすがにいい加減待ちくたびれて、私が此処にいる事を忘れているのではあるまいか、と思い始めた頃、スッと扉が開いて、一人の女性が入ってきた。


私には彼女が奥様なのか令嬢なのか分からないまま、『大変遅刻してすみませんでした。出かけに急用が出来たのもですから・・』と丁寧に遅刻を詫びた。しかし彼女はそんな言葉に耳を貸さず「絵でも恋愛は描けますの」と言った。「え!」ともう一度聞き返すと、「絵でも恋愛は描けますか?と聞いたの」と言った。私は兎に角お茶を飲んだ。彼女は立ち上がると、公園の花壇を見るように、ゆっくりゆっくり応接間の陳列品の周囲を歩き出した。


私は立ち上がって「失礼しましょう」と言った。そしてなんの言葉もなくその女性は私を見送ってくれた。

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