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井上靖全集 第3巻

ある偽作家の生涯・・日本画家大貫桂岳伝記編纂の仕事を大貫家から委嘱され、それを引き受けてから今日まで十年近い歳月が経過しているが、未だに私はその約を果たしていない。それはまず彼の年譜に着手したのであるが、晩年の京都の豪壮な邸宅を手に入れる前は、気分の赴くままに京都市及びその近郊だけでも十箇所以上その居を変え、また一年の半分は旅で送っている状況にあり、それを記録に留めるのは難しい作業であった。


 暫くして再開することになるのは、桂岳の息子大貫卓彦氏との接触、邂逅であった。二人は気が合い、その後何遍も取材旅行に出かけている。そんな中で、数少ない桂岳自筆の資料以外に新たに物が見つかったという、和紙に細字で明治三十年から三十二年までの出来事が断片的な覚書風に記されたものを入手した。これが桂岳作品に偽作が含まれている、


あるいは偽作家が存在するという事実を知らせてくれた。やがてそれが原芳泉という人物であることを知ることになる。二人はやがて大貫桂岳よりもこの偽作家、原芳泉に関心が移っていく。彼の人生について多くの記述を省略するが、題名のように原芳泉が主人公であるからこれを省略するのは、感想文にとって(あるいは読書案内にとって)無理があるが已もう得ない。


 彼の作品(偽作)はかなり優れたのもで、二人の目に依っても容易に本物と区別出来るのもではなかった。「莫迦な奴だな、親父の偽作なんてつまらんことをしないで、自分の作品を描けばいいじゃないか!」と卓彦氏は床の間の掛軸を見ながら言った。卓彦氏の遠い記憶の中で父親が「顔を上げて俺の顔を見ろ」と誰か分からぬ人物に怒鳴っている場面が蘇ってきた。原芳泉は土下座せんばかりに頭を下げている様子であった。芳泉に金を恵んでやった事は一度や二度ではなかったらしい。


 その後の芳泉の名前を聞いたのは、昭和二十年終戦の年であった。中国山脈の尾根の所で、岡山、鳥取、広島三県の県境に近い山村であった。部落一番の大百姓で檜の一枚板をそのまま納戸との境の戸にしてある座敷で、大貫桂岳の牡丹の花の下でこちらを振り向いている狐の絵であった。この家の主人はこの絵について、「実はこの絵を描いた大貫桂岳という人の無二の親友で原芳泉という画家からの物で、彼は当地出身の人です」と理由の分からぬ含羞をおびた顔で話してくれた。


 そして三回目の再会は彼の奥さんの消息であった。彼女の話によると、最晩年は絵の仕事ではなく、若い頃やっていた花火の仕事であった。しかし素人芸で本格的な仕事ではなく、村人に頼まれると家の隅でこそこそやるような惨めな仕事であった。何をやっても器用な芳泉はそれなりに花火作りをこなしていたが、作業中に花火が爆発して三本指になってしまった。若い頃は花火に桔梗色を出したいという夢を持っていた。だからこの晩年は若しかすると、若き頃の夢の実現に情熱を傾けていたのかもしれない。ここで私と卓彦氏との長い資料収集の旅は終わるかと読者は思うかもしれない。しかし作者井上氏は更にその晩年に話を進めていく。


 最後のエピソードである。村祭りに打ち上げ花火をやることになる。彼は村の若衆に花火の打ち上げ技術を教える指導者になっていた。彼の製造技術は優れたものではないが、早打ちが得意であった。早打ちというのは、前の花火がまだ消えないうちに次の花火を打ち上げるという、連続して花火が咲くという素晴らしいものであった。早打ちのため次々に玉を筒の中にぶち込むので筒は真っ赤に焼けてしまう。彼は弟子である村の若衆四人を使い老人とは思えぬ素早さで走り回った。打ち上げた花火を自分では見ることが出来ない姿勢で同じ動作を繰り返していた。「どうだ、綺麗だったか」「見物人は随分わあわあ言っていたらしいな」そんな事を弟子たちに聞いていた。これが偽作家の最後のエピソードであった。注-1


 一人の偽作家の人生を形成する暗く冷たい一本の流れは、原芳泉という人物がどうしてもそうした生き方をしなければならなかった、持って生まれた本質的なものの、韻律というもののまったくない、考えても遣り切れないものであったが、それだけに又そこに妙な業のような悲しみもあって、人間の哀れさというものを思うとき、私には何となく痩せ形の色の浅黒い陰気な無気力な容貌を持っている人間のことを思い出されてきた。


 しかし又まったく別種な感慨に打たれた。一世を風靡した画家桂岳と自分の打ち上げた花火も見ず、観衆のどよめきに背を向け続けていた芳泉が人生の出発点において同じ地点に並んでいたということは、何という皮肉なことであろうか!この事実を知った時、私たちは初めて芳泉の生涯が暗いどろどろした芳泉という人間の持って生まれてきたものの展開ではなく、一人の天才との接触において相手の重さに打ちひしがれて、自らを摩滅した凡庸な人間の悲劇を見たように思った。今までこの一偽作家の生涯に感じていた暗い運命的な手触りは消えて、もっと人間的な悲劇の色彩を帯びて、原芳泉なる人物は私の前に現れてきたのである。


 もし原芳泉が大貫桂岳と友達でなく親しい交わりを持っていなかったら、芳泉の生涯はもっと別なものであったかも知れないと思った。明治三十年前後の時代、桂岳は雲を得て天に昇りつつある蛟竜とすれば、原芳泉はさしずめその強烈な栄光のあおりを喰らって転落していく以外になかった無力な一匹の地虫ではなかったか! 注-2


 私は芳泉描く桂岳の偽作「花鳥」と「狐」の軸が既に秋の気を充たし始めているあの中国山脈の尾根にある部落の二軒の農家の床に今も懸かっているであろうことを思い出し、いつか感じた悠久の思いが、この瞬間もまた私を捉えた。それは芳泉と桂岳に関係あることであって、しかしその二人に無関係なある一つの小さな事実を持っている生命であった。そこではもう本物も偽物もなんの意味も持たないようであった。


 


 後半部分の文章は全て省略せず、小説から取り出しじっくり繰り返し読んでみたいものである。しかし長くなるのでつぎはぎしてしまい、作者の考えを充分伝えられないと思っている。ですから是非実物を読んで本物を味わって欲しいと思います。


 


 後半の一括りした部分、注-1 の部分でこの小説を終了させる事は出来なかったのだろうか? 読者の心情では、これほど芳泉を惨めにしないで、若き日の情熱が花火の早打ちに蘇って終わりにし、偽作もまた本物の照り返しとして、それなりの芸術の特殊な分野を彩るものと解釈すれば・・・そんな気持ちが無い訳ではないが、井上氏は更に踏み込んで注-2 の部分から一気に両者を昇り竜と地虫に譬え、甘い考えの読者を驚かし、最後に人間の世界の毀誉褒貶を笑い、生み出された本物と偽者の二つに何の違いがあろう!と、その作品からくる悠久な思いに、心を遊ばせる事が出来るかどうかが大切である!と言っている。

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