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井上靖全集 第4巻

その日そんな時刻・・紅子の夫、亮一は精神異常の病気で長く病院生活を送っている。担当医はほとんど回復していると診ているが、付き添っている妻にはその異常さは良く分かっている。特に亮一の病状は妻依存症というか、一時でも妻が自分から離れると怒鳴ったり、暴力を振るったりする。妻の手を握って離さないときなど、その手が万力で握られているような恐ろしい力で締め付けてくる。夫は身体も大きく、力も強いのである。
 希望のない毎日の生活の中で、雄次という紅子より二歳年上で三十二歳の青年が秘かに紅子に心を寄せている。彼は田舎の旧家の出身で、紅子はこの家の離れを借りて住んでいる。したがって、大屋さんの息子となる。この地方では男は三十二歳にもなると、子が二、三人いてもおかしくない年齢であった。だから、世間では雄次を変人かどこか身体が悪いのでは、と見ている。しかし紅子夫婦には男の子もいる家庭の主婦であり、雄次の愛を容易には受け入れられない。
 経済的にも困難な状況にある紅子夫婦に対して、雄次の知人である、後川を紹介する。
後川は東京の実業家で、この村の土地を購入するためにやって来たものだが、雄次はその斡旋をしていた。経済的に裕福である後川とコネを持つ事は自分にとって、あるいは自分と紅子にとって、有利なことと考えていたようである。東京から来たこの一見紳士然とした実業家に雄次は尊敬の念を示し、紅子にも紹介したのである。
 この地では感じられない都会風で知的な雰囲気があるが、どこか冷淡な感じのするこの実業家に対して、紅子は誠実さのある雄次にはない惹かれるものを、次第に感じ始めていた。紅子と後川との仲が接近していく中で、東京での後川の噂が雄次にも入ってくる。
 雄次の後川に対する見方も最初は尊敬の念が強かったが、事業の失敗からその人間性まで、変化してくる。しかし紅子は一旦好きな感情を抱いてしまった男性に対して、もう後戻りができない心理状態にあるのだろうか。
 「金が欲しいな!」と呟く(これが物欲しそうでなく、どうでもいいけどチョット言ってみたという雰囲気で言うのである)。「お金!」「いや、いいんだ」「でも、いまお金が欲しいと言いました」「いいんだ」「よくはないでしょう」「たいした金ではないんでどうにでもなる」。そう言ってまた彼は眠りに落ちた。・・そう、そういう状況の中で。〜立ち話では駄目なんだよ!〜 
 
 そうした中で、結局後川は50万円(終戦直後だから大金だったでしょう)という金額を口にする。「そんな大金は持っていません!」と言いながら紅子はその大金をどうしたら集められるか、考えてしまう。そしてひどいことに、彼女に心寄せている純情な青年雄次から大金を借りてしまう。雄次はそれを会社から借金によって借りたものであった。
 それを持って、すぐ上京し後川の泊まるホテルや住所に行くが、名前さえ嘘であった。
そんな後川のことを、雄次がののしるのを見た紅子は後川をかばい、雄次を憎んだ。走り出した紅子という蒸気機関車は暴走を始める。もう誰にも止められない。
 病院にいる夫、亮一は精神異常な病人でありながら、何かを感じているのか紅子を離そうとはしない。決して出かけてはいけないと言うように。

 大金を持った(最後は百万円になっている)紅子は後川を海辺に近い断崖のうえに呼び出す。後川は近寄ってくると、いきなり「どう、できた?」と訊いた。金のことだった。
「できました」「すまなかったね」これで落ち着いたといった風に、ゆっくりと煙草に火をつけると、後川は例の疲れた目で紅子を見た。紅子にはその後川の眼がやさしく思われた。
後川に紙包みを渡すと、紅子はいきなり、両手を彼の首に投げかけた。「抱いて!」「人が来る」「来ません」後川は静かに紅子の手を解くと、「来週の土曜に来る。ゆっくり会おう」と言った。「今日は私は、帰らなくとも構いません」彼女はそのつもりで、病院を出てきた訳ではなかった、ただこれだけで後川と分かれるのが嫌だった。・・・・・・・・・・・・・・・
 この時全く思いもかけず殺意が紅子を捉えた。・・・紙包みの束が、後川のわきの下から落ちたのを拾い上げようと身を屈め、再び身を起こそうとした時、紅子は彼の体に自分の体をぶっつけ、同時に両手で力任せに彼の胸を衝いた。紅子はそのうち、のろのろと立ち上がると、一度崖下を覗き、それから夢遊病者のように歩き出した。

 二時間ドラマなら主人公の紅子はなかなか殺人者には出来ない。主人公が雄次なら可能かな。もちろん、後川でもない。どうみても後川はペテン師である。それなのに、しっかり者の紅子はやはり逃げ場のない情況の中で、しゃれた、ちょっとダンディーな感じのする東京の実業家というふれ込みに、どっと、全てを捧げてしまう。恐ろしい。作者はこの不自然な展開をどう整合性を感じ、納得してくれるか、筆を振るう。でも読者のこのもやもや感は崖から衝き落とさなければすまない、ということを知っている。井上靖の人気はこんなところにあるのではないか。

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