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井上靖全集 第4巻

篝火・・多田新蔵が捕まったのは大海という部落の北方の田んぼの中であった。その時、彼の格好は裸で、緋緞子の下帯をしただけのものであった。合戦がはっきり敗北と決まるまで戦場を駈けずり廻っていた。彼を取り囲んだ十数名の織田軍の兵士は彼を討ち取ろうとはせず、捕虜にしてしまった。彼が連れられていく原野の風はまだ生臭かった。到るところ味方の武田軍の兵士の死体が横たわっていて、そこに弱い夏の夕日が斜めに落ちていた。    べらぼうな話しだ! こんな合戦ってあるか!
 これがこの敗北した戦いの感想であった。もちろん、こんな姿で敵の兵士の前に生き恥をさらしたことではない。奇妙な格好で捕虜になったこのなど、いっこうに気にならず、恥ずかしくもなく、怖くも悔しくもなかった。織田、徳川連合軍が信玄なき後この武田軍を殲滅する可能性は大いにあった。それなのに新蔵のこの胸の内にある理不尽さは一体何なのだ。
 新蔵は多田淡路の守の息子であり、美濃の多田淡路の守といえば知らぬものは居なかった。またその倅も偉丈夫として有名であった。
 彼の処分は誰の命か分からぬが、「恥じるに及ばず」というものであった。命は助けてやる、仕官せよ! というものであった。
 「俺がなぜ裸になったか、貴様は知っているのか」彼は若い武士から質問されたのである。「そんなこと知るか」「判からんだろう、お前には」

 彼は戦場で信じられないこと見聞きした。味方の兵士、高阪昌澄も、内藤昌豊も、みんなあっけなく一瞬にして相果てた。信ずべからざることが起こったのだ。土屋昌次も、原昌胤も死んだ。馬場信春も死んだ。その他大勢の優れた武将たちがみんな銃火の中に息を引き取ったのだ。主君勝頼さえどうなったか分かったものではない。この戦場の事実が彼に、 べらぼうな話しだ!と言わせたのではない。
 この敵陣地で交わされた若い兵士たちの言葉によってである。
五人の百姓のような雑兵たちに対する若い武士の質問「お前たちか、山県昌景を狙撃したのは」「命令もないのに、なぜ狙撃した」「暇だったのでございます」「暇?」「あの時、することがなかったのでございます。まとに申し訳ございません」この時新蔵は、怒られている雑兵よりも、もっと大きく自分の体が震えているのを感じた。
 
 新蔵は戦場の左翼で、山県昌景が被弾に斃れた時を見ていた。それは偶然彼の目に入った修羅場の一シーンであったが彼の死の意味は武田軍にとっては、限りなく大きいものであった。合戦の神と言われ、長く武田の至宝と言われた山県昌景の死は、急に武田軍の運命を暗く冷たいものにしたのである。この合戦は駄目だと思った。しかし彼の死は信じられないほどあっけないものであった。かれはいきなり前屈みになったと思うと、たわいなく馬上から転がり落ちたのである。まったくあっけない落馬の仕方であった。それがである、この雑兵たちは、手持ち無沙汰を紛らわすために、彼らの目にも目立って見えた一人の武田の武将を狙撃したのであろう。ばからしいことは百も承知していたが、そのばからしいことの限りが、この時、彼にこの日初めての憤怒を点火した。そして突然、大きな唸り声をあげて、彼らの方へ、篝火の光の中に身を躍らせた。・・・・・

 戦場の武器が弓から鉄砲に変化する時代の大きな変化を、その本質を多田新蔵は知らなかった。単に鉄砲が一発討った後の時間をどう縮めたらよいか、というような戦法の問題ではなかった。最早、鉄砲には刀や弓のような武士の精神は不用であった。これはパソコンや携帯が従来の道具にはない恐ろしいような力を持っている事の真実をわれわれ多田新蔵は知るべきである、と井上氏は言っている。


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