考える人・・新聞記者である私が、三重県南部の漁村に出かけたのは、女性名前の付いた台風が吹き荒れたその後の地方災害を夕刊に書く為であった。そして、この仕事とは無関係な事ではあるが、偶然本物の木乃伊(みいら)と対面することになった。私が新聞記者だと知って、ある男が部屋に訪ねてきた。目的はコウカイさんの宣伝チラシを書いて欲しい、というものであった。「一体、コウカイさんって何ですか」「何ですかって、あんた、まだ知らんかいな。玄関入って来るとき、見なさりなんだか。木乃伊(みいら)が置いてあろうがの。即身仏といってな、コウカイ上人さまは五穀断ち、十穀断ちして、われとわが身を仏さまになされた方じゃ。わしはコウカイさんを連れて、方々回り歩きまわっておるが、少しでもご利益にあやかろうという人が押しかけ、大変なもんじゃ。」 しかしこちとらが書いた文では、爺さま婆さまも、なあんだという事で帰っちまうが、ということであった。・・・。「一体、コウカイ上人とはどのような字を書くのかね」「さあね、後悔するこうかいかも知れん」「名前は別にして、大体どんな事を書くんですか」「わしの知っている事といえば、生まれは湯殿山付近、若いときに人を殺めて、それをきっかけに出羽三山の一つ湯殿山にある大きな山伏の寺に入って出家した。そしていろいろ世の為、人のために尽くし、六十二歳で入定なさった。そしてミイラになんなすった。」このようなことに知識のない私はこれだけでは、チラシの文章は書けないというと、妙にあっさりと、「いや結構じゃ、やはりこのような事は坊主に頼まんと、新聞記者ではあかんか。」 そう言うと、お疲れのところをどうも、と言って帰っていった。
私が二度目のミイラを見たのは、コウカイ上人の出来事から十三、四年経過した昨年の事であった。WやN大学の学者たちとM新聞社がミイラ学術調査団を組織し、そこに希望があれば、参加できるという機会を得たときである。口を聞いてくれたのは、学芸部記者の松谷であった。私がこの催しに参加したいと思ったのは、過っての漁村の旅館で対面したコウカイ上人というミイラのことが、記憶にあったからである。ミイラと言うと、すぐエジプトを思い出し、日本にそれほどミイラが存在するとは思っていなかったが松谷によると、藤原三代のミイラの他にも、沢山のミイラが現存しているし、その多くがほとんど東北地方に集中しているとの事。(注:読者である筆者はこのような事は一応歴史上の事実であると思っている。そうでないとあまり面白くないしまた全てフィクションであっても何も問題ないから)
私は過って経験したコウカイさんの事を松谷に聞いて見た。恐らくそれは本当のことでしょう。生まれは湯殿山であるし、コウカイさんとはカイは海でしょう。恐らく弘海上人というのでしょう、と言った。なぜなら湯殿山の修験者には皆、海が着いているそうである。私はこの学術調査団で、酒田では忠海上人や円明海上人のミイラにも対面した。どちらのミイラも多少前屈みになり手は合掌している形を取っていた。しかしコウカイさんは少し前屈みの姿勢で椅子に腰掛けていた。そしてそれはロダンの考える人と同じ姿勢である事をはっきり覚えていた。私は参加した大学の先生にこれらのミイラが如何なる生涯を送った人たちであるのか聞いてみた。そのほとんどが砂利人夫とか、貧農の倅とか、土方とか、そうした下層の出であって、しかも、殺人や傷害の犯罪者が多いとのことである。彼らは例外なく罪を犯した後湯殿山の本山である大日坊か、その中心道場である注連寺に逃げ込み、そこで出家することに依って、逮捕を免れ、その後修験の低い身分である行人となり、修行三昧の生活に入っていた。その内の何人かは道路の改修やトンネルの掘削などの社会事業に心身を投入し、世間の信望と尊敬を集めていた。それから六十二歳の釈迦入定の年齢を以って、己の入定の年を定め、数年ないし数十年を費やし木食修業へと入っていくのである。またそのミイラは死後硬直の前に人の手に依って、仏に相応しい形に整えられるのだそうである。・・・・・・・・・
学術調査団の調査があった数年後、前回調査を拒否していたお寺が、その後調査を受け入れ、ミイラが無事掘り出された、という情報を得て松谷と他に二名、全員四名でその寺へ見学に行った。しかし残念なことに、そのミイラは同じように、前屈みで合掌する姿勢であった。その帰り道にT村を通過した。その村に入ると、私は自分でも理解しがたい感動に襲われた。あの興行師が言っていた、雪深い湯殿山の麓の部落で生まれたという弘海上人の話が何故か、この部落であるという確信を私に与えていた。わたしは恰も真実であるかのように、同乗している三人に対して話をしていた。「どうですかね?」「いえ、いまTという部落の名前を聞いて、確かあの興行師がそう口にしていました」私は何がなんでもここが、弘海上人の生まれ故郷にしたかった。「いつ頃のひとですか?」「文化文政の時代の人です」「なるほど、あの頃は猛烈な飢饉で、しかも重税で苦しんでいた。十八歳のとき、若い弘海坊は祭りの時、酒に酔って喧嘩し、相手を殺してしまった。」私はここまで話したが後が続かなくなった。「これだけ!」そう言うと、同乗者の松谷が口を開いた。弘海坊はすぐに、注連寺に逃げ込み、行人となった。しかしここでは弘海坊はうだつが上がらなかった。
そして、彼はミイラになる事を宣言した。ミイラになる事は命をかけることで、周囲の人々の目は変わっていった。彼は十年の木食をやって入定すると言い切ったがこれだと四十歳で入定しなければならなかった。もう遅い、今から取り消す事は出来ない。そんな話しに運転手は笑った。しかし同乗四人は誰も笑わなかった。「もうやめておきましょう」そう松谷は言った。昨年の調査団に参加していた歌人の丸根高之という同乗者の一人が今度は口を開いた。弘海坊の生涯の続きを話してもいいですか?と言った。松谷さんの話しでは弘海坊には到底我慢出来ないでしょう。ですから彼は木食修行をやる前に、難所に道路を開こうとした。これならどんなに大変な仕事でも命は大丈夫でしょうから。そして石を砕き、細かくして道に撒き道路を開いた。そしてトンネルも作った。どんなに激しい作業をしても、それが完成すると木食修行が待っている。気がついた時彼はさらに人々から尊敬される大上人になっていた。最早、木食修行を避ける事はできなかった。今度はこれをやめる事は出来ず、とうとう六十歳で入定した。「これでどうですか」丸根は言った。「不自然ですか」「いや、不自然ではないだろう。ごく自然にそうなったのだから」最後に残りの一人、高校の教師である白戸が言った。入定する少し前のことを話します。弘海坊は仏になれるかもしれない、という気持ちがやって来た。仏になって、自分の生まれたT村の人々のような貧しく、暗い不幸な人々をあるいは救えるかもしれない、そう思った。そして息絶えた。息絶えた時は、枯骸生けるが如くであった。終り。「こんな話でいいですか」けれど、これは貴方が締めくくるべきでしょう。私はこれでいいと言った。・・・・・・・・・・・・・
しかし、本当はこのような気持ちもあった。弘海上人は入定したが、誰にも彼の姿勢を直すことが出来なかった。それだから、入定してから三年経っても、誰も地上に掘り出す事は出来なかった。そして、そのミイラが日の目を見るのは皮肉にも更に三年経った、大飢饉の年であった。百姓たちは飢えていたので、どこでも作物の取れるところは掘り起こした。当然、弘海上人は掘り起こされた。ミイラになってからも、彼は考え続けたその姿勢のままで。ミイラにならなければ生きられなかった自分を、生きているときと同じように考えていたのだ。六根清浄、六根清浄。白戸が大声で歌うのを聞いた。
コメントの投稿