北国の春・・香貫二郎と正枝夫妻の二十五年ぶりの旅行の話。余談であるがこのような話を長く読んでいると(戦中、戦後の話)、最近2007年7月29日の参院選まえ、何か日本が政治、経済、文化、また地球温暖化等で大きく変化する時代に直面している気がする。 いつの時代も、過ってはよかった、今の時代は酷すぎる、そう老人たちが言っているのを知っている。しかし、今は掛け値なしに悪い時代に突入している気がする。コンナのんびりした話を読んでいていいのか? そんな気がするが、政治家ではないのでじっくり世間を観察するのもいいことだろう。焦らず、悲観せず、世間のいい所を見ていこう。
どの作品でも同じように若い頃は一日も休まず、家庭の事は妻にまかせ、企業戦士として働き詰めの人生を送っている、社長や重役が主人公になる場合が非常に多い。この作品も会社、会社でやってきた社長がやっと、一息ついて会長職についた頃の話である。
香貫二郎夫妻が北陸地方を旅するうちに、ふと、彼が学生時代に親友であった、高森が町長をやっている町があることを思い出し、突然彼に会いに行こうとしている。
高森と彼は学生時代に一人の女性をめぐって恋の争いをした。しかし、特別なこともなく二人とも卒業していった。しかし高森は内務省に就職するやすぐに彼女と結婚した。彼には突然の出来事であった。かれは民間に就職したがこのことは彼にとって、激しいショックであった。謂わば人生の最初に於いて嘗めた失恋の痛手は、その後形を変えて彼の一生を支配したと言える。それは夫人への恨みとはならず、専ら高森への敵愾心となって現れた。進んでいく方向はまったく異なっていたが、香貫は高森に負けまいと思った。仕事の鬼と言われる彼を作り上げるのに、決して無関係ではなかった。
高森に対する敵愾心は局長を最後として、官界から引退して、政界にも、実業界にも出ることなく、そのまま郷里に引っ込んだという彼の噂が入るまで続いた。だから現在の香貫の心境は勝者と敗者という関係ではなく、昔の友達に返っていた。
旅の途中思い出して、妻を旅館に残しひとりで高森の家に訪ねていった。家に上がると三男という子供が火鉢を持って部屋にやって来た。長男、次男はもう家を出ているという。さらに長女と次女がウイスキーとグラスをもって現れた。合計五人もの子供をあの彼女が生むとは思いも依らなかった。そして、夫人が茶盆を持って現れた。ひどくほっそりとした五十年配の女性である。「家内です」「香貫です」と挨拶しながら、これは違うと思った。
若い日の自分の心に爪跡を残したあの女性とは違っていた。似ても似つかぬ女性であった。
「前の夫人はどうしたの」「前の夫人って」・・結婚の翌年の春、悪性の風邪ということで亡くなってしまった。不意に香貫は身内から何か大きなものが音を立てて崩れていくような気がした。何となく体の支えが欲しい気持ちで、あたりを見回した。確かに何物かが崩れつつあった。[注:ごめんなさい、同じような表現を多くの作品で井上氏がしているのでなく、筆者がそのような作品を選んでいるのかもしれない] 勿論夫人が亡くなったことに対する衝撃ではなかった。高森を憎み、高森と競争をしていた頃、いつも高森の背後のその夫人がいることを意識していた。しかし、今にして思えば、それはまったく架空のものであった。夫人の亡いことを知っていたら、長い歳月の間、自分は決してあのような敵意も抱かなかったであろうし、敵愾心も燃やさなかったであろう。くたくたに疲れて、宿に帰ってきた香貫は上着を脱ぎ、ネクタイをはずし、妻の正枝に一部始終を話し、椅子に腰を下ろした。それから女中が運んできたお茶を飲んだ。小さい中庭には、やはり春の闇が立ち籠めていた。
「私、初めて昔の恋人に嫉妬したわ」そう正枝は言った。「どうして」「だって、そうでしょう、その方、いつまでも若いんですもの」 なるほど、それに違いないと香貫は思った。
狼災記・・前出(ここに取り上げていない作品)の「洪水」では西域ものであるが、後漢献帝の時代、策勱(さくばい)という将軍が西域派遣軍としてこの地にやって来た。「洪水」ではアシャ族の女が出てくる。しかしここで取り上げる狼災記では、将軍の名は蒙恬(もうてん)そして戦死の後に陸沈康が派遣されてくる。天子は始皇帝である。匈奴の進入を防ぐ為にはどうしても、この地を見捨てる訳にはいかない。強敵、匈奴は油断すればいつの時代でも中国大陸を北から責め降りてくる。敗北という言葉の語源はこの匈奴に負けることを意味するから、北という字が入っていると聞いた事がある。それほどの仇敵である。そしてこの作品でも将軍、陸沈康はカレ族の女を知ることになる。どの作品でもそうであるが、井上作品はその描写の巧みさから映画化されるものが非常に多い。人気作家の原因はここにもあると思う。
陸沈康の部隊がカレ族の部落に入っていくのは勿論のこと、近づいていくのも初めてであった。カレ族の部族はこの地に散らばっている部落の中でも最も卑しい特殊なものとされていた。他部族との接触はまったくなく、男たちは牧畜、女たちは農耕に従事していた。男は口辺に入墨し、女は茶色の縮れた髪を束ねて背後の長く垂らしていた。特殊と言われる所以は部族全員死臭がすると言われていたからである。そして全軍がこのカレ族の部落で留まることを余儀なくされた。雪が猛烈に積もった為である。
陸沈康は勿論一人で部屋に泊まるわけであるが、彼は部屋に入るなりいきなり片隅に槍を衝き付け、「出ろ」と叫んだ。そこから女が出てきた。陸沈康は女の上着を掴んで炉辺へ引き立ててきた。陸が声を発する前に女が口を開いた。「汝は既に死んでしまっている私をもう一度殺そうとするのか」「汝はなぜ隠れていたのか?」陸が聞いた。「隠れていたのではない。この家から離れるのを好まなかったのだ。私の夫はこの秋に死んだ。夫の霊が眠っているこの家以外では眠ることが出来ない」女はまだ若かった。二十歳を幾つも越してはいないに違いない。眼はこの部族特有の猜疑深い鋭い光を湛えていた。「死者に用はない、汝の寝所に戻れ」「私は出ていく」「出ていくとはどういうことか、この寒さでは死ぬということだぞ」
陸沈康は女の顔を鋭く見守っていたが、全く思いがけず、この時ふいに陸は相手に女として挑まれていると感じた。長い間女というものを忘れていた陸沈康は、ふいにわれに返ったような気持ちで、今自分の前に立っている若い女の顔を見守った。激しく抵抗したが、寝所の枯蘆の上に体を投げ出されると、あとは諦めたのか、死んだように無抵抗になって、陸の為すがままになった。女の死臭のような臭いは部屋中に漂っていた。
カレ族の言い伝えによると、昔から他部族の者と七夜契ると、けだものになる、と言われていた。そして、六夜が過ぎた日、陸は全軍をこの部落から出発させた。まだ雪が深く行軍は困難であった。早く都に到着しなければならなかったが豪雪のために隣の部落にたどり着くのがやっとであった。この夜陸は置いてきた女のことがどうしても忘れられず、陸ただ一人雪の中を引き返していった。・・・・・。
高祖の七年、秦が滅びてから六年、陸沈康が行方不明になってから十年の歳月が過ぎた。
そしてまたこの西域の地に新しい派遣軍がやってきた。将軍は張安良である。かれは陸沈康の部下で信頼関係のある兵士であった。この部隊が宿営する夜、二匹の狼の遠吠えを聞いた。そのようなある夜、張安良は狼の口から懐かしい陸沈康の声を聞いた。まさしく陸の声であった。俺はお前をかみ殺さなくてはならない、だから汝は俺を切れ、身を低くするなかれ。身を低くしたら俺たちの勝ちになる。こう、その狼は告げた。張安良は鎧をつけ、刀を構えて二匹の狼の前に立った。しかし雄の狼は張ののど下に鋭い牙を立て、雌の狼は張の大股に喰らいついて離れなかった。この事件以降、漢室は次のような布告を出した。 近年、狼災のこと頻々たり、境外にあるものは宜しく腹帯を締める労を怠ることなかれ。・・狼の襲撃とこの腹帯の関係は今に至っても不明である。
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